「我思う、故に我あり」で有名なデカルトですが、その結論を得るための冒険にでるきっかけとなったのは30年戦争の中での出来事です。

 30年戦争は、1618年、神聖ローマ皇帝フェルディナンド2世とファルツ候フリードリヒ5世のボヘミア王を巡っての争いが発端となっています。

 その皇帝フェルディナンド2世の軍隊にデカルトは参加し、互いの争いが拮抗して、一時停戦になり冬営中に一人籠もっていた炉部屋で見た夢が、学問の土台作り直すという壮大な冒険に向かわせるきっかけとなりました。

 そしてさまざまな場所に冒険をして、「我思う、故に我あり」という悟りを開いた後、デカルトは1643年、何の因果か、30年戦争勃発の皇帝の敵側であったファルツ候フリードリヒ5世の娘・エリザベスとオランダにて巡り合い、なんとその娘がデカルトの一番弟子になります。事実、その翌年「哲学原理」という本を出すのですが、フリードリヒ5世の娘・エリザベスへという献辞をつけて出版しています。

 娘・エリザベスは、有名なイギリスのエリザベス女王に由来していて、エリザベスの次のイギリス国王となるジェームズ1世がエリザベス女王に敬意をこめて娘にエリザベスと名付け、そのジェームズ1世の娘のエリザベスがファルツ候フリードリヒ5世と結婚したため、フリードリヒ5世の娘もエリザベスの名前を引き継いだのです。

 そしてフリードリヒ5世はデカルトが冬営していた後の1620年の白山の戦いにて皇帝フェルディナンド2世に敗れ亡命する事になります。その際、フリードリヒ5世の叔父にあたるオランダのオレンジ公マウリッツ(徳川家康がオランダ東インド会社でオランダ側の国王とした人物でもある)を頼ってオランダに亡命したため、エリザベスもオランダに居ました。

 ただそのフリードリヒ5世の叔父であるオレンジ公マウリッツは、デカルトが30年戦争に参加する前に、オランダの80年戦争に参加した際の軍隊の総督でした。デカルトは、オランダのマウリッツの軍隊に参加し、イザラク・ベークマンという幾何学などに長けた人物とありかなりの影響を受けています。

 デカルトが学問の土台となる構想を固めるのに1628年にオランダに移り住んだのも、かつてオランダ軍に属していた経験からオランダの文化にある程度なじみがあったからでもあったのではないでしょうか。

 そして30年戦争の終わりとも言える1648年のウェストファリア条約において、エリザベスは父であるフリードリヒ5世が敗北したため没収されてしまったファルツ候の領地を条約などの関係で半分だが回復するようだが喜んで良いものかと手紙で質問しており、デカルトは半分と言えどもとても価値のあるものであると答えています。

…以前は、デカルトとエリザベトは良き先生と生徒で深く議論して晩期の『情念論』の執筆に繋がったという認識でしたが、30年戦争というキーワードと通すとまた違った視点でみれるなと思いました。

①ルドルフ2世

ルドルフ2世は1550年半ばに生まれ、東南アジアからアメリカ大陸まで統治した世界帝国を気付くことになるスペイン王・フェリペ2世の宮殿で幼少の教育を受けます。ルドルフ2世の父親はマクシミリアン2世でまもなく神聖ローマ皇帝になる直前にスペインに送られています。それは、マクシミリアン2世が宗教的に寛容になっており、ドイツ周辺の皇帝領を治めるにはやや力不足であったため、叔父のフェリペ2世が心配してルドルフ2世の教育を買ったらしいです。1563年にスペインに行ったのですが、1561年にフェリペ2世がスペインの中心に位置するマドリットを首都にすることを決めたばかりであり、更にルドルフ2世が宮廷に行き間もなく新しい宮殿も立て始めていたことから、フェリペ2世の世界規模な発展の勢いを肌で感じられたのだと思います。また、フェリペ2世は書類王と言われる程中央集権体制を厳格にした人で、王と貴族の距離感も少し離したため、それがルドルフの王としての厳格さと尊厳を学んだようです。また、フェリペ2世の宮殿は世界の珍しいもの・優れたものが多く集まっていて、このコレクター欲も影響を受けたようです。

そして、1571年フェリペ2世がオスマン帝国と大決戦するレパントの海戦の年に、ウィーンに戻ります。スペインでの教育は父のマクシミリアン2世にとって脅威になるほど、ルドルフの雰囲気を変え、次期皇帝として期待され、1572年にハンガリー王に、1575年にボヘミア王になります。そして1576年に神聖ローマ皇帝になります。

その頃、オランダ(ネーデルランド)ではフェリペ2世が統治していたのですが「レパント沖の海戦」での大量な出費があったため、オランダ軍に十分な給金ができず反乱が起きてしまいます。その際にフェリペ2世には幼少期お世話になったのと親戚関係であったため、ルドルフ2世は支援として弟のマキアスをオランダに送ります。マキアス自身、優秀な兄に対するコンプレックスみたいのを持っていて、オランダで勢力を拡大しようとするのですが、上手くいかず、兄ルドルフ2世を怒らしてしま、ウィーンへの帰国が許されなくなります。

ただ、ルドルフ2世は以前からメンタルヘルスのバランスがたまに崩れる傾向にあったのですが、30代半ばくらいからひどくなり(遺伝性統合失調の一種とも)、厳格に家臣との距離が以前からあったのですがより距離を取るようになり、政治よりも芸術などの文化的コレクションに関心が向かうような面もあり、プラハに首都を移しています。

プラハ城では北翼にコレクションルームを作り、世界の珍しいものを集めた「驚異の部屋」(クンストカンマー、死後にスペインホールに一部なる)があったり、マニエリスムの画家・ジュゼッペ・アルチンボルトや天文学のティコ・ブラーエやケプラーを保護したりして、芸術・文化の発展に大きく寄与します。

ルドルフ2世自体は当初から政治においては宗教に寛容な態度を示していたものの、精神的不安定なルドルフ2世に変わって政治を行ってくれる反宗教改革派のメルヒオール・クレースル(Melchior Klesl 1552-1630)などの影響もあり結局はカトリック偏重の政治になってしまいます。ただ当時は寛容であることが必ずしも諸国の統治に繋がるわけではなく、このカトリック偏重はフェリペ2世が行っていた政治的に主流な流れでもありました。そんなジレンマからルドルフ2世はカトリックというのをもう少し和らげて「学問と正義」で統治しようなどとも考えたのかもしれません(単に政治に無関心というわけではなかったのかも)。

事実、1593年からは少しの間平和的であったトルコとの長い戦争を行い(Long Turkish War)積極的な政治を執っています。

しかし、その長い戦争がハンガリーの人々に大きな負担をかけ、特に弾圧されていたプロテスタントの諸侯がたまりかねて1604年くらいから反乱を起こします(The Bocskai uprising)。そして、オランダ長らくおいてやられていた弟マティスは1583年プラハに宮殿が移動したのを機にウィーンに戻ってきていて、周りの勧めもあり、そのハンガリーの反乱に加担し、1608年にはついに兄ルドルフ2世からハンガリー王の座を奪っています。更にはルドルフ2世が亡くなると皇帝の座を継ぐことになりました。

マティアスは兄に対するコンプレックスみたいなもので対抗していて、さらにルドルフ2世の不安定なメンタルの発言に嫌気がさしていたり政治的に追いつめられていた人がマティアスを支援したため、結果皇帝の座をルドルフ2世から取れたわけで、マティアスは運よく波に乗れたという感じだったのだと思います。

しかし、結局マティアスは自信が皇帝になり統治の立場に立ってみるとルドルフ2世の悩みなどが理解ができて、結局はボヘミアの問題を増幅させてしまい、30年戦争が起こる土壌ができてしまうのです。

②フリードリヒ5世と娘のエリザベス

ルドルフ2世が亡くなり、弟のマティアスが帝位を継ぐも、弟のマティアスは実際政治をしてみると難しさを知り、結局優柔不断な政治をしてしてしまいます。

うかうかしている内に好戦的なフェルディナンド2世が神聖ローマ皇帝となるべく、弟マティアスのボヘミア王位も取ってしまい、1617年にボヘミア王になりました。

フェルディナンド2世は、ルドルフ2世やマティアスと違い、徹底的にプロテスタントを好戦的な態度で弾圧したため、1618年にボヘミアのプラハ城でフェルディナンド2世の使者がボヘミアのプロテスタント貴族によって窓から投げ出される事件が起こりました(プラハ城第二次投擲事件)。

更に翌年にはマティアスが亡くなり、フェルディナンド2世が神聖ローマ皇帝を継ぐことが確実になり始めると、ボヘミアのプロテスタント貴族は危機感を感じ、プロテスタント貴族の中の同盟からフリードリヒ5世を選出してボヘミア王はフェルディナンド2世からフリードリヒ5世に任命すると、フェルディナンド2世の承諾なしに宣言してしまいます。

ここから、フェルディナンド2世がフリードリヒ5世を制圧すべき戦争が始まったのが30年戦争の発端となっています。

ファルツ候フリードリヒ5世の父フリードリヒ4世はかつてボヘミアのプロテスタント貴族の同盟を作りました。そのため、フリードリヒ5世がプロテスタント同盟の中からボヘミア王として選ばれたのです。

また、フリードリヒ5世は1613年にジェームズ1世の娘エリザベス・スチュアートと結婚しています。エリザベト・スチュアートは時のイギリス国王ジェームズ1世の娘でした。イギリスは羊毛が盛んで輸出先としてオランダが重要だったため、オランダのオレンジ公マウリッツと良好な関係を築いていたため、マウリッツの親類にあたるファルツ候フリードリヒ5世とも良好な関係を気付いておこうと思ったのでしょう。

そのためか、後にフリードリヒ5世が30年戦争でフェルディナンド2世に敗れオランダに亡命しており、またエリザベス・スチュアートの息子はジェームズ1世の息子チャールズ1世の清教徒との内戦にて、チャールズ1世側について戦っています。

そして、フリードリヒ5世はエリザベス・スチュアートがジェームズ1世の娘であるため、フェルディナンド2世と戦うさえもイギリスの支援が受けられると考えていました。しかし、ジェームズ1世はその頃平和的秩序を重んじるため、他国の戦争に手を出さない方針にしていました。そのため、フリードリヒ5世はイギリスの支援を受けられなかったのです。

またフェルディナンド2世がいざ1619年に神聖ローマ皇帝に戴冠すると(因みに9月9日のフランクフルトでの戴冠式にデカルトはオランダ軍から抜けた後見に行っている)プロテスタント同盟の中でも意見が割れ始めました(10月treaty of Munich)。そのため、フェルディナンド2世とフリードリヒ5世の戦いは一時休戦状態になっていたところに10月デカルトは皇帝軍に属し、ドナウ川の町に行き、冬ごもりで宿舎に入りました。この時の炉部屋において学問の土台を作り出す冒険に出るべき神の啓示を受ける夢を見ました。

そして1920年にフェルディナンド2世とフリードリヒ5世は決戦(白山の戦い)を行うのですが、フリードリヒ5世は敗北し、オランダのオレンジ公マウリッツを頼ってオランダに亡命する事になります。また奥さんのエリザベス・スチュアートと2年前に生まれたばかりのエリザベス(エリザベト)もオランダに行きます。

デカルトは、冬ごもりの後は軍隊を抜けてフランスなど諸国を周りますが、色々なところに放浪した後、当初の目的だった学問の土台を作る作業に取り掛かるため、知り合いの少ないオランダに1628年に行きその作業に取り掛かります。

そして少し経ち1643年、同じくオランダにいたフリードリヒ5世の娘エリザベスから手紙が届き、エリザベスはデカルトの弟子になることになります。当時デカルトは自我をもって考えることが正しい結論を見出すと考えていましたから異端視される傾向にあり、エリザベスの理解ある手紙はデカルトにとって心の支えになったようです。1644年の『哲学原理』においてはエリザベスへの献辞を書いています。またエリザベスの質問から1649年『情念論』を執筆することになります。

そして1648年、ついに30年戦争が終わりを告げるウェストファリア条約が結ばれます。30年戦争の初期に敗北し領地を奪われたファルツ候フリードリヒ5世でしたが領地が半部になって返ってくることになりました(フリードリヒ5世は亡くなっていたが)。そこでエリザベスは領地が半分になって返ってくるのは喜んで良い事なのかというような内容を手紙で質問します。デカルト、同じ年(1649年)にエリザベスの母の兄弟であったチャールズ1世が清教徒革命で敗れて処刑される事に気の毒でることを付け加えた上で、領地が半分になったとしてもとても価値のあることだと返答しているようです。

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